聖徳太子・間人皇后 大成古墳郡 大陸文化の玄関先丹後王国に生まれたうまし宿とト屋!
丹後半島間人(たいざ)の地に生まれ、この地に宿を構え大陸文化との関わりをストーリーにしてきました。 世界ジオパーク認定スポット立岩・間人皇后母子像・大成古墳、そして竹野神社、新明山古墳と丹後王国を感じながら、豪族のお墓はきっとアジア人のお墓であろうと感じております。
大成古墳は丹後町竹野にあり、この辺り一帯は、大昔海中だった海食台が隆起して出来た海岸段丘と呼ばれる高台で、日本海を一望出来る非常に見晴らしの良い場所です。
この古墳群は、古墳時代後期(6世紀末~7世紀初め)にかけての古墳で、古墳からは須恵器・土師器などの土器や刀剣・鉄鏃などの鉄器、碧玉製管玉・瑪瑙製勾玉・ガラス小玉・金環(耳飾り)などの装身具が発見されており、この地方を治めていた豪族の墓と思われます。
この地域を一望出来るこの場所に、死者の霊を祀ったのは納得出来ます。
大成7号墳 |
大成9号墳 |
海岸へ下りる遊歩道 |
冬の日本海立岩、冬の大成古墳いつの季節でも素晴らしいものです。
特に聖徳太子、間人皇后、歴史に詳しい方は、とト屋のお部屋に置いてある丹後半島の歴史書を読みながら、ゆっくりと寛いでくださいね。
たくさんの本が置いてあるのがいいね。と喜んで頂いております。
丹後半島ストーリーは楽しいです。
《竹野神社の概要》 「丹後古代の里資料館」の向かいである。↑「三の鳥居」をくぐって参拝する。本殿の真後ろに依遅ヶ尾山のピークがくる、見えるかな。 初午祭の1コマ。これがよく見える↓ 振り返ってみると、参道が延々と続いている。↓ 二の鳥居はここにある↑↓。これはいったいどこへ続くのか。先には御旅所がありそうに思われる。 ↓左手にあるのは「丹後古代の里資料館」 どこまでも続く参道。 国道178号から「参道」を見る↓(左右の水田面より1メートルばかり高い、いつの時代かに盛り土したものか。水田は元は潟湖であったと考えられる。) 国道178号を横切り、まだ続く。この方はオート・キャンプ場の入口道にもなっている。道路の先に一の鳥居が↓少し見える。 これが一の鳥居、「御旅所」で↓右手にあるのが末社「矢崎神社」↓(祭神:宇賀能魂神、稚産霊神、保食神)。少しだけ写っている建物。 参道とは「御旅所」への道である。 一角にこんな石組がある↓これが降臨石でなかろうか。祭りの日ここに神が天から降臨されるのだろうか。 一の鳥居から竹野川河口と立岩をのぞむ↓参道の向きからは少しはずれた位置になる。 このあたりは弥生の竹野遺跡の中である。ここが御旅所なら、ここが竹野神社の元の鎮座地で、もしかすると弥生時代からここにあった神社かも知れない。竹野の元の意味は光明で、太陽を祀る社であったかも知れない、今は皇祖神・天照大御神となっているが、ここに鎮座していたころはアラーの太陽神を祀るものであったかも知れない。 御旅所の東側は畑や荒地になっているが石棺が3つも出土している、ここには王家の館もあったかもわからない、さらに福蓮寺の地名があり、これは竹野神社の神宮寺だろうか。 もう一度「三の鳥居」までもどる。 右手には、末社「厳島神社」(祭神:市杵島姫神)がある。↓ 末社・野々宮神社(祭神:野槌神)↓神明山古墳へ続く道の途中にある。この場所は境外と思えるが、今はボロボロになっていて、これは少し古い写真である。 一の鳥居(御旅所)が竹野弥生遺跡地にあることを見れば、はるか竹野神社以前から元・竹野神社はあったとも考えられ、太陽神や地母神や宗像の海神などが祀られていたのかも知れない。 野々宮神社の野槌神というのはヘビと思う、ノヅチは俗にツチノコの親だそうだが、ツチとかツツというのは蛇のことと思われる、軻偶突智というのも銅のヘビという意味と思われるが、溶けた銅が流れる様を軻偶突智と呼んだものか、今の当社の真後ろに依遅ヶ尾山の山頂がくるように、その依遅ヶ尾山大蛇を祀る社が元々この地にあったかも知れない。それを押しのけて当社は建てられたのかもわからない。ヘビ神は水神とされるが、軻偶突智に見られるように金属とも結びついている。 斎女と大蛇 大まかには当社に伝わるものも三輪山型伝説に含まれると思うが、神体山・依遅ヶ尾山の大蛇(神)と当社神女(人間)との関係が語り継がれている。 『京都の伝説・丹後を歩く』 依遅ヶ尾の大蛇 伝承地 竹野郡丹後町矢畑 『田辺府志』 斎大明神 『宮津府志』 ...又斎宮ト號スルハ熊野郡市場村ニ斎官之人有女子を生メバ則チ飛箭屋上ニ立ツ也。其ノ子四五歳之時当宮ニ奉リ斎女ト為也。山中深林之中ニ獨リ禽獣ト同居シテ敢テ畏怖スルコト無シ。若シ長シテ天癸(月経)至リ或ハ交接之情生スルニ及テハ即チ大蛇出現シテキキトシテ(雷鳴のとどろくがごとく)眼ヲ瞋ラス是時ニ及テ官ヲ致シテ郷里ニ還ル(以上神社啓蒙)... 『丹哥府志』 【斎女】神啓蒙云。熊野郡市場村に斎宮の者あり、女子生るる時は飛箭来りて屋上に立つ其子四五歳の頃より斎の宮に奉る、これを斎女と称す、既にして高山深谷の中に独り禽獣と居る敢て畏るる事なし、其天癸を見るに及ぶ頃大蛇出でて眼を瞋らす、是時宮を致して故郷に還る。 三輪山神話だと、大蛇(神・大物主神)の子が生まれて、神格を得た子が斎主となるが、当社では子はできない。近くの民話には蛇婿入り型も見られるが、当社はそうなっていない。今は末社・稲荷神社に大国主命も祀る。 依遅ヶ尾山は見る位置からは山稜が傾いて見えて、「ダイヤモンドヘッド」などとも俗称されるが、玄武岩(安山岩)の山で、鉄分は花崗岩より多いかも知れない、ここもコンパスが狂う鉄の山だそう。 東史郎氏がおられたころ、そのお家の窓からは真正面に見えた、「依遅ヶ尾がよく見えるんですね」「ながめがいいですよ、いっぺんのぼりましょか」ということだったのだが、はたせずじまいになってしまった。 竹野神社↓ ↓神明山古墳 中央の高峰が依遅ヶ尾山 熊野郡市場は今の須田の一部で、河上摩須郎女の屋敷跡というものがある、ここの湯舟坂2号墳から金銅装双龍環頭太刀が出土している→、 丹波道主命のヨメさんの河上摩須郎女の里といわれていれる。当社は河上摩須郎女と丹波道主命が祀った神社であろう。依遅ヶ尾の神は祀るがその子孫ではない。 丹波道主命一族が勢力盛んな渡来系とみれば、その姻族はミミと名乗る海人系先住民の場合が多いのだが、河上摩須郎女一族はどうもそうではないように思われる。河上は今でもこの谷を川上谷というその地名で、この地名は単に川の上流というのではなく、金属と関係のある地名でげんにここにはカンナ流し跡がある。摩須は摩須良ともあって、衆良神社の社名や現在の須田の地名に名を残しているようである。マスラというのがフルネームのようだが、最初のマも最後のラも落ちやすいようで、どうでもいいような語のよう、要するにスかたぶんスエで、鉄あるいは砂鉄という意味か、あるいは渡来氏族を示したソであろう。道主系はもともとは銅系の氏族のようだが、摩須族は鉄系と思われる、目と耳の結婚時代ののちの銅と鉄の結婚時代であったかも知れない。以後は新技術を持った鉄氏族が強くなってきて、彼らのマゴたちがその技術で全国をまたにかけて活躍するが、その当時創建の神社なのかも知れない、絶対年代でいえば、「鉄の5世紀」その少し前ころだろうか。「鉄の5世紀」は丹後勢力によって築かれたのかも知れない。 片目の鍜冶王・大和の垂仁大王の后となった、道主命と摩須郎女の娘・比婆須比売は摩須郎女の須田の砂鉄王国を受け継いだ女王かと思われる、比は卑弥呼のヒであり、婆須は摩須であろうか、BとMはどこの言語でもよく互転するが、姫真ス御子とかではなかろうか。 社頭の案内板↓ 以前はこんなことが書かれていた。 竹野神社は、竹野郡内の延喜式内社14座のうち大一座の社格を有し、開化天皇の妃、竹野姫をはじめ用明天皇第三皇子の麿呂子親王などにゆかりの古社であり、また記録によれば隠岐よりの神馬献納をはじめとして丹後はもとより若狭・但馬などの各地から厚い信仰が寄せられ、今なお斎宮と呼びしたしまれている。本社は享禄3年(1530)社殿ことごとく焼失し、現社殿は文政13年(1830)再建のものであるが、永い歴史や伝承とともに数多くの文化財が保存されていることでも高名である。とりわけ、本殿をはじめとする建造物及び古文書は京都府登録文化財に、参道を含む自然環境保全地区として、さらに桃山時代の縁起絵巻及び平安時代とみられる経塚出土品等の町指定文化財など、優れた文化財が多い。(昭和61年9月 丹後町・丹後町教育委員会) さて、三の鳥居をくぐり、いよいよ本殿へ進んでみる。 両側に巨木の参道。いくら掃いても落ち葉が大変↓ 写した時代はバラバラだが、ここが中門↓ 竹野神社拝殿が中央に、右側に見えるのが↓斎宮神社である。 この日は拝殿前に御輿が2基あった。神様がおられるようである。 中門の神額には「斎宮神社」とある。 竹野神社(↓祭神:天照大神)。隣に斎宮神社(祭神:日子坐王命・建豊波豆良和気命・竹野媛命)が鎮座する↓ 竹野神社は、竹野川河口東岸の神明山古墳の傍ら、「丹後古代の里資料館」の向かいに鎮座している。背後に依遅ヶ尾山のピークを、前面には立岩を意識したような位置のようである。なかに多くの社を含みこんだ全体としての大きな神社である。 「延喜式」神名帳に竹野郡「竹野神社 大」とみえる。竹野郡唯一の名神大社である。しかし平安の『延喜式』などはあほくさいような、それよりもすっと大昔からここにあった悠久の古社である。 長い時代の中で、古今東西いろいろな要素が習合しているので、現在から見ればかなりややこしくて何か何やらさっぱりわからないが、ワタクシ風の怪説をつけながら案内してみたい。 竹野神社祭神は天照大神。旧府社。竹野神社を通称・斎宮(いつきのみや)というが、斎宮は本殿左横に、境内摂社として斎宮神社が別にあり、日子坐王命・建豊波豆良和気命・竹野媛命を祀っている。 斎宮神社(右側)↓いずれも文政13(1830)の再建になるものという。 摂社というのは元々の本社のようなものであり、本来はこちらを祀る社であったと思われる、諸般の事情から天照大神を祀る竹野神社を本社という形にしたものと思われる。元々太陽神を祭っていた伝統もあり、それを天照としておけば誰にも文句はいわれない、祭り上げておこうと。 斎(いつ)くというのは先祖神を祀るということで、今でも火葬場を「斎場」とよぶのはそうした意味である。「斎」は略字で正式には「齋」と書くが、中の「示」は本来は「女」と書いたそうで、一族の女斎主がこうした髪型の正装をして先祖神を祀るという意味という。漢字は中国のもので彼の地の風習だろうが、日本でもそうだったのかも知れない。沖縄のように主に祭事は女性が執り行っていたかも知れない。 社記によれば、垂仁天皇妃の丹波大県主由碁理の女・竹野媛が、年老いて郷里竹野の地に帰り天照大神を奉斎したのに始まると伝えるが、竹野姫かは別としても一族の女主人が天照大神ではなく、竹野一族の祖神を祀っていたものかと思われる。 (『まんが丹後王国物語』より→) 一族の祖として、日子坐王を祀っているのだが、丹波道主命の父だからということだろうか、しかし肝腎の丹波道主命は祀っていない。ということは日子坐王=丹波道主命としているのかも知れない。 建豊波豆良和気命(武豊葉列別命)は、『古事記』『姓氏録』しか見えないが、開化と葛城の垂水宿禰の娘・ワシ比売との子で、道守臣、忍海部造、御名部造、稲羽の忍海部、丹波の竹野別、依網の阿毘古等の祖とされている。何か渡来系のような感じの氏族の祖ともされるし、「別」とされるのはカバネではなかろうか、これは渡来系と考えられていて、「丹波竹野別」が当社の祖に当たるものかは不明である、当社は丹波王家の流れをくむと思われ、竹野別は関係がないのではなかろうか。 竹野媛は何代にもわたる世襲名と思われ、何代にもわたった当社の斎主名かと思われる。本来は祀る側の人であろうが、祀られる側にもなったものか。丹波道主命の娘であったかはわからないが、中には当社の竹野媛には大和大王(開化)妃となる者もあった。交換で大和大王家の娘もここに嫁いでいたと思われ、両者には深い関係があったと思われる、もともとが何か親類縁者的なつながりがあるのかもわからない、元の北九州あたりでは同じであったものが一方は大和へ他方は丹後へ移ったものなどともよくいわれる、現在の天皇家に繋がる家系になるのか、当否のほども別としてそう考えるとわかりやすくなるようなことも多い、わからなくなることも多い。王家の社なら豊受大神を祀りそうに思うのだが、それがまったくない、どこかへの遠慮か不明なのか祭神はぼかしてあるのではなかろうか、本命ズバリの納得の名はない。 「室尾山観音寺神名帳」「竹野郡五十八前」に、「正四位下 齋國主明神」が見える。斎という名は他にはないので、当社の斎宮神社を言ったものでないかと思われるが、その名から判断すれば国主というのは、大和国主ではなく、丹波国主のことで、丹波道主命のこと、この名なら本来は丹波道主命を祀る社ではなかったかと思われる。 また斎宮には麻呂子親王も祀るという。その額面通りなら何も当社とは血縁的にはつながらない。聖徳太子の弟と同名異人の麻呂子あるいは金麿というの名の祖先が当社の祖にもいたのではなかろうか。 伊豆神社と稲荷神社 本殿に向い合って鎮座している。右が↑稲荷神社(祭神:宇賀能魂神・大国主命)。左が↑伊豆神社(祭神:天児屋根命・社司桜井氏の祖)、丹哥府志が丸田の社としているのはこの社であろう。 門斎神社 この西側に門斎神社(祭神:櫛磐間戸神)がある。そこの横手の道から神明山古墳へ行くのだが、そんなとこまで足を運ぶのはかなわんといった人むけに、ここでお参りしてもらうための社ではなかろうか。 櫛磐間戸神というのは手力雄命の別名のようなもので、鉱山神と考えられている、ここは天照との関係があるのか、それとも神明山古墳の被葬者は実は鉱山神ということなののだろうか。 その道の途中に野々宮神社がある。 麻呂子親王の鬼退治と七仏薬師の分置の伝説 当社には二巻の縁起が伝わる。 紙本着色等楽寺縁起一巻↓ 紙本着色斎明神縁起一巻↓(いずれも部分) 隣の「丹後古代の里資料館」の『丹後王国の世界』に、 等楽寺縁起絵巻と斎宮大明神縁起絵巻 竹野神社(京丹後市丹後町竹野)に存在する麻呂子親王の鬼退治と七仏薬師伝説にかかわる絵巻です。 等楽寺縁起は、前半部を欠失して原題は分かりません。ただ、寛印供奉による再興を伝えており等楽寺縁起と推定されます。大和絵の伝統的な描き方の中に漢画の影響が見られる室町時代後期から桃山時代の絵図です。 斎宮大明神縁起は、伊勢参籠の物語など伊勢神との関係が強調され、酒呑童子の伝説の影響が見られます。絵画としても山岳の表現、色彩など優れたもので制作年代は江戸時代に入っていると推定されます。このほかにこの伝説を伝える絵画に清園寺(福知山市大江町)の縁起が存在します。この縁起は、等楽寺縁起よりもさらに古くなります。これらの絵画は麻呂子伝説の中世における伝承を伝えると同時に美術的にもすぐれた作品です。 鬼退治伝説 推古天皇のころ、丹後の国三上ヶ嶽(現在の大江山)では英胡・軽足・土熊(土車)の3匹の鬼が首領となり、人々を苦しめていました。朝廷は用明天皇第三皇子(聖徳太子の異母弟)の麻呂子親王を大将軍に任命し、鬼の討伐に向かわせました。その道中、戦勝祈願のため大社に立ち寄ると、伊勢の神の化身である老人がどこからともなく現れて、「この犬が道案内をいたします」と白い犬を差し出しました。 やがて鬼との合戦が始まりました。『斎宮大明神縁起絵巻』には鬼に斬りかかる親王の姿や、鬼に噛みつく犬の姿が描かれています。山の奥深くに逃げ込む鬼。しかし、白い犬が持っていた鏡が鬼たちを照らし見つけ出し、英胡と軽足は官軍に討ち取られ、土熊は現在の竹野で生け捕りにされ、末代の証拠として丹後の岩に封じ込められました。その岩が現在の立岩だと伝えられています。 親王は鬼の平定は神仏のご加護によるものだと深く感謝し、七体の薬師如来像を彫刻し、七つの寺に納めたということです。 七つの寺院だけでなく、丹後・丹波には「麻呂子親王と七仏薬師」ゆかりと伝える古刹はたくさん分布している。のちの大江山酒呑童子伝説はどちらかと言えば丹波のものだが、七仏薬師は丹後が中心で、特に当社周辺が中心地のようである。 それそれ書かれた時代も違いスジも多少は異なっている、当社の斎宮大明神縁起でもそうだが、麻呂子ではなく、金麿親王となっている。 そのまま信じていい伝説かとなるとそれは疑問で、薬師信仰の最初の寺院とされる大和薬師寺でも天平の頃(729~49)であり(厳密には平城京遷都とともに移転していて、最初の薬師寺は680発願となっている)、丹後国建国(和銅6・713)だから、早く見てもだいたいその頃である、 ところが聖徳太子は、574年~622年の人で、麻呂子親王も実在するならその頃の人であろう。従ってこの話はどう考えても100年くらいは早すぎるのである。 中国の玄奘(孫悟空の三蔵法師)が『薬師経』を翻訳したのは650年、義浄が『七仏薬師経』を訳したというか、中国版に焼き直したのは、日本では天平の頃であった。薬師経も七仏薬師経もインドにも原典はないというから、チョクにインドから入るものでもない。 用明天皇第三皇子の麻呂子親王による丹後の鬼退治は仮に認めても、七仏薬師分置という話は実際にはありえない。ずっと後世になって、聖徳太子信仰も加わり加上された物語であろうか。 しかし無から突然にまったくの根も葉もない空想物語ができるわけではなく、仏教が最初に民間に入ってくる時期に、病気を治してくれて、世の病気も治してくれる現世利益的薬師信仰は受けがよかろうし、特に眼病に効き、昔は夜叉だったというならば金属関係者にはもってこいの仏であろうと思われるが、当地方にあったそうしたなにがしかの実情を多少は反映したものと思われる。 立岩を見つめてこの像が建っているが、何か聖母子のようにも見える、聖徳太子が厩戸皇子と呼ばれたようにキリスト的で、仏教だけでなく、キリスト教も混じって入っていたのではなかろうか。(厳密には物部氏対蘇我氏の戦いには厩戸皇子も加わり活躍しているので、当地に間人皇后と一緒に乱を避けていたことはなかろうと思われる) 神明山古墳や産土山古墳などと当社の関係 社頭から見える産土山古墳。ずうと右へ伸びている尾根がそう↑ 参道から産土山古墳。(2つのカーブミラーの下の尾根がそう↓) ↓産土山古墳。同じ位置から。写真の一番左の全部が写っていない小山がそう。 当社の一帯は日本海側最大級の神明山古墳ばかりでなく、長大な横穴式石室古墳や王者の棺と呼ばれる長持形石棺を納めた古墳も3つある。「王者の石棺」は、丹後にはここばかりでなく、ゴロゴロ発掘されているが、「千年の都」の府下でほかには久津川車塚しかない。たいへんな所が丹後である。 竹野川流域社会の中心はこの時代はこの地にあったと思われ、そうした氏族の古墳祭祀を引き継いだのが当社かと思われる。古墳に祀る時代もすぎて、ある程度の宗教理論が入ってきてからのことではなかろうか。 麻呂子親王の弟を祀るとされる志布比神社(大山)や同様の弟を祀るとする松枝神社(是安)も近くにあり、麻呂子親王の墓とされるものもある。 竹野潟湖との関係 復元想定図(『丹後王国の世界』より)↓ この地が中心になり得たのはここに潟湖があり、海上交易の基地であったからだといわれる。その通りだと考えるが、ではなぜ竪穴の古墳がないのかだろう(なくはないが、分布の中心はもっと上流になる)、青龍三年鏡は出ないのだろう。 この潟湖はフツーは上図↑のように想定されていて、成願寺あたりまでを範囲としたかわいらしいものだったと想定されている。しかしそうした規模のものではなかったとした伝承もある。 『丹後町史』 竹野川口のむかし 『丹後国竹野郡誌』深田部神社(黒部) (同社調文書) 『京都府の地名』志布比神社(大山) この神社には次のような伝承がある。人類史以前にさかのぼれば 『京都五億年の旅』 黒部に貝の化石 氷河期と間氷河期の海進と海退だけでは説明できないのではなかろうか。50メートル以上も海面を押し上げるほども地球規模の温暖化があったとも考えられず、やはり当地に隆起があったと思われる。 そこで、もし40メートル沈下したならば、こうなるの海岸線である。日本海側海岸のテラスの隆起量はもっとある場所もあり、もし丹後半島が一様に隆起していたなら、その隆起以前はこうした状態ではにかったか→ (緑色は50メートル) ここまでであったかはどうかとして、古くはずっと奥まで入り込んでいて、大田南古墳群の時代は、その直下までは潟湖でなかったかと考えられる、青龍三年鏡の頃はあのあたりに港があったのではなかろうか。 何かの巨大な地殻の力で丹後半島が裂けて生まれたと思われる巨大な谷で、この延長線は加悦谷になるのだが、それもどんどん埋まり横穴の時代になると当社一帯だけの潟湖に縮小していたのではなかろうか。 これを川と見るか海と見るか、それで河岸段丘としたり、海岸段丘と見たりするのだろうが、この入り江の周囲は段丘が残されている。 詳しくはボーリングして調べてもらいたい。 潟湖があったというだけではこれだけの発展はない、海運業と右から左への卸問屋業だけで、この地産の高価な交換商品がなければ、豊かな富は手に入らない。農産物や海産物はカサは大きいが金額がはらない。水晶玉や金属ではなかっただろうか。 私はこの時代は金属生産と見る。海の鬼も山の鬼も悪者ではなく、実はこの地の発展と富を築いてくれたものではなかっただろうか。 舞鶴のオニも大江山のオニも最後は当社へ逃れる、当社こそが丹後のオニの本拠地でなかっただろうか。 富は額に汗し手にタコして働く者からのみ得られるもので、資本や国や親王とやらが生み出したりはしない。かつて当社祭礼は霜月丑の日に行われ、鬼神塚(牧ノ谷)に詣でて鬼神たちに感謝した。オニが滅びたとき丹後もまた滅びたのであった。アメさんやテッポーやゼニやらカジノやらアホらしいものの崇拝はやめよう、まじめに働く者に対するまじめな手当をまじめにやろう、国を滅ぼしたくなくばそれしかない、現在でも忘れてはなるまい塚である。 竹野神社には支社がないようである、しかし斎神社というのはあちこちに見られて、舞鶴にもあるし若狭にも結構見られる、綾部にもあるが、はたして当社の支社かは不明である。 桜井サンは舞鶴にもあるが、当社家の別れかも不明である。 こうしたことで古くは確かな史料がない。 「三代実録」元慶元年十二月廿九日乙未条に、「授丹後国正六位上竹野山伎神従五位下」とあり、これが当社のことという。 「延喜式」に、丹後国竹野郡 竹野(タカノノ)神社(大) 以後の主な史料は下段に引いたので参照して下さい。 江戸時代には宮津・出石両藩の歴代藩主の崇敬も受けたといわれるが、とくに漁師などから丹後の明神として崇信された。遠く隠岐国から神馬が当社に奉納され、神馬が倒れるごとに奉納は繰り返されたという。社家の桜井家は現在58代目という。 テンキテンキ 「道の駅てんきてんき」「てんきてんき村」とか河口には「てんきてんき橋」があるが、そのテンキテンキとは、この伝統民俗芸能のかけ声から採られたものである。 コエカケ、コエカケ、ハジメヨウ。テンキテンキ、ヒヨリヨイサ (坂根正喜写真集『心のふるさと丹後Ⅱ』より↑) 漁師の村らしい予祝のかけ声のようだが、黒部や船木の踊子と同じ流れに立つ中世的な囃子物で、風流踊の古態を示すものといわれる。太鼓1とササラ4で囃しながら小学生の子達が踊ってくれるものだが、大山や遠下にも同様なものは伝わるというが私はまだ見たことがない。中郡や竹野郡の神社の祭礼は、みな同じ日(今は10月の第2日曜日)で、同じ時間帯だから、見たくても都合がつかないのである。 当社の栞に、 竹野テンキテンキとは、竹野区に伝えられる郷土芸能で、10月10日の竹野神社の祭礼に演じられるもので、テンキテンキの名称は、子供たちが掛ける声、『コエカケ、コエカケハジメヨウ。テンキテンキ、ヒヨリヨイサ』に由来するものです。テンキテンキは竹野区のもので、少子化の中で近頃ではこの6名の小学生の確保が難しい。 竹野区は70戸ばかりありますが、小学生は3名だけです、中学生を入れたりしてやってきましたが、もうダメですわ、できなくなって3年ばかりになります。 とにかく結婚してもらわないことにはどうにもなりません。この村にもそうした年頃のもんは何人もおるんです、40ナンボとか、そんなのがけっこうおるんです。うごきません、どういうのか積極性がない、ナニからナニまでこちらで段取りしないことには自分からは動きません。それに以前は世話焼きのデシャバリばぁーさんとかいましたが、この頃はなにやかにやと難しい、すぐ離婚したりしますんで、世話焼く人もなくなりました。ここから丹後が始まったなどと言われる歴史ある村ですが、それがそうなんです。 地方は土壇場へ来た。それを象徴するような話である、別に結婚しようと積極的に動かない未婚者が悪いわけではない、そうさせてしまっている政治や社会こそが問題なのであるが、これは政府やそれにベッタリの自治体やエライさんなどにまかせていてどうなるものでもない、彼らにやらせていたのではますます悪くなるだけであろう。このオッちゃんもそう言っていた。 あきらめたら終わる、自分の村なのだからそこの村人自らでやるより確かな手がない、ひとつひとつ自信を取り戻していくより手がない。 そうしたことで、漁船で海の案内をされているとか、そこでカップルを作るのだそうである。ネットを見て来られるようで、なかなか若い人達に人気があるとのことであった。 ずっと昔だが、たぶんここからだったと思うが釣り船に乗せてもらいイカを釣った記憶があるが、このごろはイカやタコではなく、釣り上げようとするエモノが違うようである。いいエモノを釣れよ。 《交通》 竹野神社の主な歴史記録『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』 一 近沢保 三町二段二百七十歩内 「室尾山観音寺神名帳」「竹野郡五十八前」 正二位 竹野明神 『丹哥府志』 【竹野神社】(延喜式) 『丹哥府志』 【鬼神塚】(祭十一月中の丑) 『田辺府志』 斎大明神 『宮津府志』 今曰斎宮大明神。祭神二座伊勢両宮と同。社人・桜井内匠頭 『丹後旧事記』 日本古事記に曰く若倭根子日子大毘毘尊(開化天皇)聚旦波大県主油碁理女竹野媛生御子此子由牟須美尊(一柱)旧事記に曰く竹野媛は垂仁天皇の御代迄も有仕遂年老形姿醜返於本土葛野地到の時輿より堕ちて身失ぬ玄旨法印説に曰く是を城州葛野の事に記せしは旧事記の誤り勅諚により随つて送来有当国葛野の地より返し静に竹野里の身失しなり此媛旧里に帰り大神宮を祭る、所謂竹野郡竹野里に竹野宮是也又此媛斎女となりけるに依て斎の宮とも云なり大県主油碁理は竹野里を国府となし館造し人也。 『大日本地名辞書』 【竹野(タカノノ)郷】和名抄、竹野郡竹野郷。○今竹野村八木゙村是なり、鳥取郷の北、竹野川の東畔なり。竹野神社は今竹野村大字宮に在り、斎宮と云ふ、竹野別の祖を祭る、開化紀に、皇子彦湯産隅命の生母を竹野媛と為し、其子を彦坐王とす、古事記には彦湯産隅命の異母弟、建豊波豆羅和気を以て「丹波之竹野別之祖也」と注す、国造本紀には、但遅麻国造は竹野君同祖彦坐王五世孫とありて、古事記の註と符合せず、此なる社は建波豆羅命にあらずして、彦湯産隅命なるべし、神社啓蒙宮津府志等に、竹野宮は麿子王の天照大神を祭れる所と為すは古義に合はず。 「丹後国式内神社取調書」 竹野神社 『丹後国竹野郡誌』 竹野神社 郷社 字宮小字宮谷鎮座 |