心をほどく体験と心が躍る蟹と魚 海辺のうまし宿とト屋/丹後半島・間人(たいざ)-間人蟹料理と地魚料理- International Tourist Minshuku

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 DSC09765.JPG   うまし宿 とト屋 古代丹後半島の魅力!

丹後半島間人(たいざ)の地に生まれ、この地に宿を構え大陸文化との関わりをストーリーにしてきました。            世界ジオパーク認定スポット立岩・間人皇后母子像・大成古墳、そして竹野神社、新明山古墳と丹後王国を感じながら、豪族のお墓はきっとアジア人のお墓であろうと感じております。

 

大成古墳は丹後町竹野にあり、この辺り一帯は、大昔海中だった海食台が隆起して出来た海岸段丘と呼ばれる高台で、日本海を一望出来る非常に見晴らしの良い場所です。
 この古墳群は、古墳時代後期(6世紀末~7世紀初め)にかけての古墳で、古墳からは須恵器・土師器などの土器や刀剣・鉄鏃などの鉄器、碧玉製管玉・瑪瑙製勾玉・ガラス小玉・金環(耳飾り)などの装身具が発見されており、この地方を治めていた豪族の墓と思われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この地域を一望出来るこの場所に、死者の霊を祀ったのは納得出来ます。


大成7号墳

大成9号墳

海岸へ下りる遊歩道


冬の日本海立岩、冬の大成古墳いつの季節でも素晴らしいものです。

特に聖徳太子、間人皇后、歴史に詳しい方は、とト屋のお部屋に置いてある丹後半島の歴史書を読みながら、ゆっくりと寛いでくださいね。

たくさんの本が置いてあるのがいいね。と喜んで頂いております。

 丹後半島ストーリーは楽しいです。

 

《竹野神社の概要》
竹野神社
「丹後古代の里資料館」の向かいである。↑「三の鳥居」をくぐって参拝する。本殿の真後ろに依遅ヶ尾山のピークがくる、見えるかな。
初午祭の1コマ。これがよく見える↓
本殿背後の依遅ヶ尾山

振り返ってみると、参道が延々と続いている。↓
参道
二の鳥居はここにある↑↓。これはいったいどこへ続くのか。先には御旅所がありそうに思われる。
↓左手にあるのは「丹後古代の里資料館」
二の鳥居
どこまでも続く参道。
国道178号から「参道」を見る↓(左右の水田面より1メートルばかり高い、いつの時代かに盛り土したものか。水田は元は潟湖であったと考えられる。)
参道
国道178号を横切り、まだ続く。この方はオート・キャンプ場の入口道にもなっている。道路の先に一の鳥居が↓少し見える。
参道
これが一の鳥居、「御旅所」で↓右手にあるのが末社「矢崎神社」↓(祭神:宇賀能魂神、稚産霊神、保食神)。少しだけ写っている建物。
参道とは「御旅所」への道である。
一の鳥居
一角にこんな石組がある↓これが降臨石でなかろうか。祭りの日ここに神が天から降臨されるのだろうか。
降臨石?
一の鳥居から竹野川河口と立岩をのぞむ↓参道の向きからは少しはずれた位置になる。
立岩
このあたりは弥生の竹野遺跡の中である。ここが御旅所なら、ここが竹野神社の元の鎮座地で、もしかすると弥生時代からここにあった神社かも知れない。竹野の元の意味は光明で、太陽を祀る社であったかも知れない、今は皇祖神・天照大御神となっているが、ここに鎮座していたころはアラーの太陽神を祀るものであったかも知れない。
御旅所の東側は畑や荒地になっているが石棺が3つも出土している、ここには王家の館もあったかもわからない、さらに福蓮寺の地名があり、これは竹野神社の神宮寺だろうか。


三の鳥居
もう一度「三の鳥居」までもどる。
右手には、末社「厳島神社」(祭神:市杵島姫神)がある。↓
厳島神社
末社・野々宮神社(祭神:野槌神)↓神明山古墳へ続く道の途中にある。この場所は境外と思えるが、今はボロボロになっていて、これは少し古い写真である。
野々宮

一の鳥居(御旅所)が竹野弥生遺跡地にあることを見れば、はるか竹野神社以前から元・竹野神社はあったとも考えられ、太陽神や地母神や宗像の海神などが祀られていたのかも知れない。
野々宮神社の野槌神というのはヘビと思う、ノヅチは俗にツチノコの親だそうだが、ツチとかツツというのは蛇のことと思われる、軻偶突智というのも銅のヘビという意味と思われるが、溶けた銅が流れる様を軻偶突智と呼んだものか、今の当社の真後ろに依遅ヶ尾山の山頂がくるように、その依遅ヶ尾山大蛇を祀る社が元々この地にあったかも知れない。それを押しのけて当社は建てられたのかもわからない。ヘビ神は水神とされるが、軻偶突智に見られるように金属とも結びついている。



斎女と大蛇
大まかには当社に伝わるものも三輪山型伝説に含まれると思うが、神体山・依遅ヶ尾山の大蛇(神)と当社神女(人間)との関係が語り継がれている。
『京都の伝説・丹後を歩く』
依遅ヶ尾の大蛇 伝承地 竹野郡丹後町矢畑
 昔むかし、何千年も前のこと、依遅ケ尾に大蛇が棲んでいた。矢畑の村の人々は時々この大蛇を見ることがあった。
 この大蛇が、ある日、斎神社の神姫を見て、一目惚れをしてしまった。それからは、寝てもさめてもその神姫のことを思って、食事もろくろくとれぬほどになった。大蛇は牧の谷まで下りてきたが、斎神社の神威に打たれてどうしても神社の森に入ることができない。
 斎神社の神はその大蛇の心情をかわいそうに思って、雪が二メートルも積もったある日、大蛇に「二百十日の巳の刻に斎神社の松縄手にあるお旅所へ行け。そうすればお前の恋をかなえてやろう」と告げた。
 やがて、依遅ヶ尾にも春が来て雪が解け、夏が過ぎて待望の秋が来た。不思議なことに、斎神社の神姫も夢のなかで、「二百十日の巳の刻、とてもよいことがあるので、縄手のお旅所へ行くように」と天照大神のお告げがあった。
 二百十日になり、神姫は斎神社のお旅所にお参りして祝詞をあげていた。午後一時ごろになると、一天にわかにかき曇り、バケツから移したような大雨が竹野川に降ってきた。みるみるうちに田も畑も海のようになってしまったが、お旅所だけは少し小高いところにあったので、水のなかにぽっかりと浮いたようになった。神姫は宮へ帰ることができず、何度も祝詞をあげていた。午後二時ごろになると、依遅ヶ尾から炭のような真黒い雲が下りてきた。この雲に乗って、依遅ヶ尾の大蛇が神姫に逢いに来たのだった。しかし、何とかして姫に近寄ろうとしたけれども、斎神社の威光に打たれ、もんどりうって立岩の沖の海に落ちた。その嵐のなかでキラリと光った二つの目は姫を吸いつけるようににらみ、竹野の人も間人の人も、海を見ていた人はみな、この大蛇の目を見ることができた。この嵐のためについに大蛇の恋は遂げられずに終わった。
 それから何千年もの間、大蛇は二百十日の午後二時ごろ、依遅ヶ尾から炭のような黒雲に乗って、後の立岩の沖へ出てくる。大蛇はだいぶん年をとったのか、二百十日を間違えて二、三日早く来たり、四、五日遅れて来たりするようになった。  (『丹後の民話』第三集)
【伝承探訪】
 丹後町を流れる竹野川に注ぐ支流吉永川のほとりの吉永集落から尾根道を上って行くと、長く点在する矢畑集落に出る。このあたりもかなりの高さだ。そのもっとも上にある家のところから改修中の道をさらに奥に歩くこと、十数分。岩肌を露出させ、厳しく屹立する依遅ヶ尾の山容が眼前に見えるところへ出る。高さ五百四十メートル。海岸近くにあってひときわ目立つ姿のこの山は、金剛童子山・磯砂山などとともに、当地方の漁師たちの目印とする山であった。山の頂には祠が設けられ、四月・十月には近在の村人たちが登って祭りが行なわれていた。この山の水は南へは吉永川となって流れ出し、また東は遠下から宇川へ注ぎ、西は牧の谷の方へと流れ出る。しかし、この矢畑へは豊かに流れてくることはない。旱魃になると、山頂では雨乞いが行なわれたものであった。このように、この山には、大蛇の姿として観ぜられる水の神の信仰を窺うことができるのである。
 一方かつて、竹野神社には神に仕える斎女が選ばれた。斎女は市場村(現熊野郡久美浜町)から出た。神の子が生まれると、その家に白羽の矢が立ったと伝える。今、市場には斎宮大明神と呼ばれる小祠が祀られている。斎女は神の妻とも観ぜられた女性である。
このような女性に神が通うというものには、大和国三輪山の蛇神(三輪大物主神)が通ったという『日本書紀』の伝説の例がある。竹野の伝説はこのような神と巫女との聖なる結婚という発想に依るものである。そして、これに依拠しつつも、斎女は竹野神社の神を祀る者ゆえ、依遅ヶ尾の山の神の結婚を認めないとされている。この伝説は、二百十日頃の空模様の異様さという自然現象をこの山の神の結婚の不成立への怒りという点において説こうとしたものではなかったか。
 ともあれ、依遅ヶ尾の山から西、竹野神社の方へと流れ出る水脈は、この伝説にみえる、大蛇が通う恋の道だったのである。)

『田辺府志』
斎大明神
齋大明神といふ事は同国熊野郡市場村の中に神につかふる家あり、女子を生る時神箭飛ゆきて彼家の棟に立たり、四五歳の時宮におくり奉る山中たれども獣もやぶる事なし、成長して交接の心生する時大蛇出て眼を瞋らかす、其時郷に帰る、是を齋女といふなり、此斎女ある宮ゆへに世人齋大明神といふなり。

『宮津府志』
...又斎宮ト號スルハ熊野郡市場村ニ斎官之人有女子を生メバ則チ飛箭屋上ニ立ツ也。其ノ子四五歳之時当宮ニ奉リ斎女ト為也。山中深林之中ニ獨リ禽獣ト同居シテ敢テ畏怖スルコト無シ。若シ長シテ天癸(月経)至リ或ハ交接之情生スルニ及テハ即チ大蛇出現シテキキトシテ(雷鳴のとどろくがごとく)眼ヲ瞋ラス是時ニ及テ官ヲ致シテ郷里ニ還ル(以上神社啓蒙)...

『丹哥府志』
【斎女】神啓蒙云。熊野郡市場村に斎宮の者あり、女子生るる時は飛箭来りて屋上に立つ其子四五歳の頃より斎の宮に奉る、これを斎女と称す、既にして高山深谷の中に独り禽獣と居る敢て畏るる事なし、其天癸を見るに及ぶ頃大蛇出でて眼を瞋らす、是時宮を致して故郷に還る。

三輪山神話だと、大蛇(神・大物主神)の子が生まれて、神格を得た子が斎主となるが、当社では子はできない。近くの民話には蛇婿入り型も見られるが、当社はそうなっていない。今は末社・稲荷神社に大国主命も祀る。
依遅ヶ尾山は見る位置からは山稜が傾いて見えて、「ダイヤモンドヘッド」などとも俗称されるが、玄武岩(安山岩)の山で、鉄分は花崗岩より多いかも知れない、ここもコンパスが狂う鉄の山だそう。
東史郎氏がおられたころ、そのお家の窓からは真正面に見えた、「依遅ヶ尾がよく見えるんですね」「ながめがいいですよ、いっぺんのぼりましょか」ということだったのだが、はたせずじまいになってしまった。
竹野神社↓       ↓神明山古墳 中央の高峰が依遅ヶ尾山
依遅ヶ尾山
金銅装双龍環頭太刀(湯舟坂2号墳出土)
熊野郡市場は今の須田の一部で、河上摩須郎女の屋敷跡というものがある、ここの湯舟坂2号墳から金銅装双龍環頭太刀が出土している→、
丹波道主命のヨメさんの河上摩須郎女の里といわれていれる。当社は河上摩須郎女と丹波道主命が祀った神社であろう。依遅ヶ尾の神は祀るがその子孫ではない。
丹波道主命一族が勢力盛んな渡来系とみれば、その姻族はミミと名乗る海人系先住民の場合が多いのだが、河上摩須郎女一族はどうもそうではないように思われる。河上は今でもこの谷を川上谷というその地名で、この地名は単に川の上流というのではなく、金属と関係のある地名でげんにここにはカンナ流し跡がある。摩須は摩須良ともあって、衆良神社の社名や現在の須田の地名に名を残しているようである。マスラというのがフルネームのようだが、最初のマも最後のラも落ちやすいようで、どうでもいいような語のよう、要するにスかたぶんスエで、鉄あるいは砂鉄という意味か、あるいは渡来氏族を示したソであろう。道主系はもともとは銅系の氏族のようだが、摩須族は鉄系と思われる、目と耳の結婚時代ののちの銅と鉄の結婚時代であったかも知れない。以後は新技術を持った鉄氏族が強くなってきて、彼らのマゴたちがその技術で全国をまたにかけて活躍するが、その当時創建の神社なのかも知れない、絶対年代でいえば、「鉄の5世紀」その少し前ころだろうか。「鉄の5世紀」は丹後勢力によって築かれたのかも知れない。
片目の鍜冶王・大和の垂仁大王の后となった、道主命と摩須郎女の娘・比婆須比売は摩須郎女の須田の砂鉄王国を受け継いだ女王かと思われる、比は卑弥呼のヒであり、婆須は摩須であろうか、BとMはどこの言語でもよく互転するが、姫真ス御子とかではなかろうか。

社頭の案内板↓
社頭の案内板
以前はこんなことが書かれていた。
竹野神社は、竹野郡内の延喜式内社14座のうち大一座の社格を有し、開化天皇の妃、竹野姫をはじめ用明天皇第三皇子の麿呂子親王などにゆかりの古社であり、また記録によれば隠岐よりの神馬献納をはじめとして丹後はもとより若狭・但馬などの各地から厚い信仰が寄せられ、今なお斎宮と呼びしたしまれている。本社は享禄3年(1530)社殿ことごとく焼失し、現社殿は文政13年(1830)再建のものであるが、永い歴史や伝承とともに数多くの文化財が保存されていることでも高名である。とりわけ、本殿をはじめとする建造物及び古文書は京都府登録文化財に、参道を含む自然環境保全地区として、さらに桃山時代の縁起絵巻及び平安時代とみられる経塚出土品等の町指定文化財など、優れた文化財が多い。(昭和61年9月 丹後町・丹後町教育委員会)

さて、三の鳥居をくぐり、いよいよ本殿へ進んでみる。
両側に巨木の参道。いくら掃いても落ち葉が大変↓
竹野神社
写した時代はバラバラだが、ここが中門
竹野神社
竹野神社拝殿が中央に、右側に見えるのが↓斎宮神社である。
竹野神社
この日は拝殿前に御輿が2基あった。神様がおられるようである。
神額
中門の神額には「斎宮神社」とある。
竹野神社(↓祭神:天照大神)。隣に斎宮神社(祭神:日子坐王命・建豊波豆良和気命・竹野媛命)が鎮座する↓
竹野神社

初午祭14

竹野神社は、竹野川河口東岸の神明山古墳の傍ら、「丹後古代の里資料館」の向かいに鎮座している。背後に依遅ヶ尾山のピークを、前面には立岩を意識したような位置のようである。なかに多くの社を含みこんだ全体としての大きな神社である。
「延喜式」神名帳に竹野郡「竹野神社 大」とみえる。竹野郡唯一の名神大社である。しかし平安の『延喜式』などはあほくさいような、それよりもすっと大昔からここにあった悠久の古社である。
長い時代の中で、古今東西いろいろな要素が習合しているので、現在から見ればかなりややこしくて何か何やらさっぱりわからないが、ワタクシ風の怪説をつけながら案内してみたい。

竹野神社祭神は天照大神。旧府社。竹野神社を通称・斎宮(いつきのみや)というが、斎宮は本殿左横に、境内摂社として斎宮神社が別にあり、日子坐王命・建豊波豆良和気命・竹野媛命を祀っている。
                斎宮神社(右側)↓いずれも文政13(1830)の再建になるものという。
斎宮神社(右側)

初午祭14

摂社というのは元々の本社のようなものであり、本来はこちらを祀る社であったと思われる、諸般の事情から天照大神を祀る竹野神社を本社という形にしたものと思われる。元々太陽神を祭っていた伝統もあり、それを天照としておけば誰にも文句はいわれない、祭り上げておこうと。
斎(いつ)くというのは先祖神を祀るということで、今でも火葬場を「斎場」とよぶのはそうした意味である。「斎」は略字で正式には「齋」と書くが、中の「示」は本来は「女」と書いたそうで、一族の女斎主がこうした髪型の正装をして先祖神を祀るという意味という。漢字は中国のもので彼の地の風習だろうが、日本でもそうだったのかも知れない。沖縄のように主に祭事は女性が執り行っていたかも知れない。
竹野媛
社記によれば、垂仁天皇妃の丹波大県主由碁理の女・竹野媛が、年老いて郷里竹野の地に帰り天照大神を奉斎したのに始まると伝えるが、竹野姫かは別としても一族の女主人が天照大神ではなく、竹野一族の祖神を祀っていたものかと思われる。
(『まんが丹後王国物語』より→)

一族の祖として、日子坐王を祀っているのだが、丹波道主命の父だからということだろうか、しかし肝腎の丹波道主命は祀っていない。ということは日子坐王=丹波道主命としているのかも知れない。
建豊波豆良和気命(武豊葉列別命)は、『古事記』『姓氏録』しか見えないが、開化と葛城の垂水宿禰の娘・ワシ比売との子で、道守臣、忍海部造、御名部造、稲羽の忍海部、丹波の竹野別、依網の阿毘古等の祖とされている。何か渡来系のような感じの氏族の祖ともされるし、「別」とされるのはカバネではなかろうか、これは渡来系と考えられていて、「丹波竹野別」が当社の祖に当たるものかは不明である、当社は丹波王家の流れをくむと思われ、竹野別は関係がないのではなかろうか。
竹野媛は何代にもわたる世襲名と思われ、何代にもわたった当社の斎主名かと思われる。本来は祀る側の人であろうが、祀られる側にもなったものか。丹波道主命の娘であったかはわからないが、中には当社の竹野媛には大和大王(開化)妃となる者もあった。交換で大和大王家の娘もここに嫁いでいたと思われ、両者には深い関係があったと思われる、もともとが何か親類縁者的なつながりがあるのかもわからない、元の北九州あたりでは同じであったものが一方は大和へ他方は丹後へ移ったものなどともよくいわれる、現在の天皇家に繋がる家系になるのか、当否のほども別としてそう考えるとわかりやすくなるようなことも多い、わからなくなることも多い。王家の社なら豊受大神を祀りそうに思うのだが、それがまったくない、どこかへの遠慮か不明なのか祭神はぼかしてあるのではなかろうか、本命ズバリの納得の名はない。

「室尾山観音寺神名帳」「竹野郡五十八前」に、「正四位下 齋國主明神」が見える。斎という名は他にはないので、当社の斎宮神社を言ったものでないかと思われるが、その名から判断すれば国主というのは、大和国主ではなく、丹波国主のことで、丹波道主命のこと、この名なら本来は丹波道主命を祀る社ではなかったかと思われる。
また斎宮には麻呂子親王も祀るという。その額面通りなら何も当社とは血縁的にはつながらない。聖徳太子の弟と同名異人の麻呂子あるいは金麿というの名の祖先が当社の祖にもいたのではなかろうか。

伊豆神社と稲荷神社
伊豆神社と稲荷神社
本殿に向い合って鎮座している。右が↑稲荷神社(祭神:宇賀能魂神・大国主命)。左が↑伊豆神社(祭神:天児屋根命・社司桜井氏の祖)、丹哥府志が丸田の社としているのはこの社であろう。

門斎神社
門斎神社
この西側に門斎神社(祭神:櫛磐間戸神)がある。そこの横手の道から神明山古墳へ行くのだが、そんなとこまで足を運ぶのはかなわんといった人むけに、ここでお参りしてもらうための社ではなかろうか。
櫛磐間戸神というのは手力雄命の別名のようなもので、鉱山神と考えられている、ここは天照との関係があるのか、それとも神明山古墳の被葬者は実は鉱山神ということなののだろうか。
その道の途中に野々宮神社がある。


麻呂子親王の鬼退治と七仏薬師の分置の伝説
当社には二巻の縁起が伝わる。
紙本着色等楽寺縁起一巻↓
等楽寺縁起
紙本着色斎明神縁起一巻↓(いずれも部分)
斎明神縁起
隣の「丹後古代の里資料館」の『丹後王国の世界』に、
等楽寺縁起絵巻と斎宮大明神縁起絵巻
 竹野神社(京丹後市丹後町竹野)に存在する麻呂子親王の鬼退治と七仏薬師伝説にかかわる絵巻です。
 等楽寺縁起は、前半部を欠失して原題は分かりません。ただ、寛印供奉による再興を伝えており等楽寺縁起と推定されます。大和絵の伝統的な描き方の中に漢画の影響が見られる室町時代後期から桃山時代の絵図です。
 斎宮大明神縁起は、伊勢参籠の物語など伊勢神との関係が強調され、酒呑童子の伝説の影響が見られます。絵画としても山岳の表現、色彩など優れたもので制作年代は江戸時代に入っていると推定されます。このほかにこの伝説を伝える絵画に清園寺(福知山市大江町)の縁起が存在します。この縁起は、等楽寺縁起よりもさらに古くなります。これらの絵画は麻呂子伝説の中世における伝承を伝えると同時に美術的にもすぐれた作品です。


鬼退治伝説
 推古天皇のころ、丹後の国三上ヶ嶽(現在の大江山)では英胡・軽足・土熊(土車)の3匹の鬼が首領となり、人々を苦しめていました。朝廷は用明天皇第三皇子(聖徳太子の異母弟)の麻呂子親王を大将軍に任命し、鬼の討伐に向かわせました。その道中、戦勝祈願のため大社に立ち寄ると、伊勢の神の化身である老人がどこからともなく現れて、「この犬が道案内をいたします」と白い犬を差し出しました。
 やがて鬼との合戦が始まりました。『斎宮大明神縁起絵巻』には鬼に斬りかかる親王の姿や、鬼に噛みつく犬の姿が描かれています。山の奥深くに逃げ込む鬼。しかし、白い犬が持っていた鏡が鬼たちを照らし見つけ出し、英胡と軽足は官軍に討ち取られ、土熊は現在の竹野で生け捕りにされ、末代の証拠として丹後の岩に封じ込められました。その岩が現在の立岩だと伝えられています。
 親王は鬼の平定は神仏のご加護によるものだと深く感謝し、七体の薬師如来像を彫刻し、七つの寺に納めたということです。


七つの寺院だけでなく、丹後・丹波には「麻呂子親王と七仏薬師」ゆかりと伝える古刹はたくさん分布している。のちの大江山酒呑童子伝説はどちらかと言えば丹波のものだが、七仏薬師は丹後が中心で、特に当社周辺が中心地のようである。
それそれ書かれた時代も違いスジも多少は異なっている、当社の斎宮大明神縁起でもそうだが、麻呂子ではなく、金麿親王となっている。
そのまま信じていい伝説かとなるとそれは疑問で、薬師信仰の最初の寺院とされる大和薬師寺でも天平の頃(729~49)であり(厳密には平城京遷都とともに移転していて、最初の薬師寺は680発願となっている)、丹後国建国(和銅6・713)だから、早く見てもだいたいその頃である、 ところが聖徳太子は、574年~622年の人で、麻呂子親王も実在するならその頃の人であろう。従ってこの話はどう考えても100年くらいは早すぎるのである。聖徳太子像
中国の玄奘(孫悟空の三蔵法師)が『薬師経』を翻訳したのは650年、義浄が『七仏薬師経』を訳したというか、中国版に焼き直したのは、日本では天平の頃であった。薬師経も七仏薬師経もインドにも原典はないというから、チョクにインドから入るものでもない。
用明天皇第三皇子の麻呂子親王による丹後の鬼退治は仮に認めても、七仏薬師分置という話は実際にはありえない。ずっと後世になって、聖徳太子信仰も加わり加上された物語であろうか。
しかし無から突然にまったくの根も葉もない空想物語ができるわけではなく、仏教が最初に民間に入ってくる時期に、病気を治してくれて、世の病気も治してくれる現世利益的薬師信仰は受けがよかろうし、特に眼病に効き、昔は夜叉だったというならば金属関係者にはもってこいの仏であろうと思われるが、当地方にあったそうしたなにがしかの実情を多少は反映したものと思われる。
立岩を見つめてこの像が建っているが、何か聖母子のようにも見える、聖徳太子が厩戸皇子と呼ばれたようにキリスト的で、仏教だけでなく、キリスト教も混じって入っていたのではなかろうか。(厳密には物部氏対蘇我氏の戦いには厩戸皇子も加わり活躍しているので、当地に間人皇后と一緒に乱を避けていたことはなかろうと思われる)




神明山古墳や産土山古墳などと当社の関係
神明山古墳
社頭から見える産土山古墳。ずうと右へ伸びている尾根がそう↑
参道から産土山古墳。(2つのカーブミラーの下の尾根がそう↓)
神明山古墳
↓産土山古墳。同じ位置から。写真の一番左の全部が写っていない小山がそう。
産土山古墳
当社の一帯は日本海側最大級の神明山古墳ばかりでなく、長大な横穴式石室古墳や王者の棺と呼ばれる長持形石棺を納めた古墳も3つある。「王者の石棺」は、丹後にはここばかりでなく、ゴロゴロ発掘されているが、「千年の都」の府下でほかには久津川車塚しかない。たいへんな所が丹後である。
竹野川流域社会の中心はこの時代はこの地にあったと思われ、そうした氏族の古墳祭祀を引き継いだのが当社かと思われる。古墳に祀る時代もすぎて、ある程度の宗教理論が入ってきてからのことではなかろうか。
麻呂子親王の弟を祀るとされる志布比神社(大山)や同様の弟を祀るとする松枝神社(是安)も近くにあり、麻呂子親王の墓とされるものもある。

竹野潟湖との関係
復元想定図(『丹後王国の世界』より)↓
竹野潟湖
この地が中心になり得たのはここに潟湖があり、海上交易の基地であったからだといわれる。その通りだと考えるが、ではなぜ竪穴の古墳がないのかだろう(なくはないが、分布の中心はもっと上流になる)、青龍三年鏡は出ないのだろう。
この潟湖はフツーは上図↑のように想定されていて、成願寺あたりまでを範囲としたかわいらしいものだったと想定されている。しかしそうした規模のものではなかったとした伝承もある。
『丹後町史』
竹野川口のむかし
谷源蔵翁の文献によると、竹野川口は今の成願寺の清水と徳光橋本の中間にあって、その下流一帯の平地は、竹野オチ浜(立岩の東)から、宮・願興寺・岩木・三宅・大下・平井・大山・川尻の広瀬にかけて、日本海の内浜入江で湖沼であり、その浅瀬には芦や荻が生い茂って、由良川の川口に似ていたであろう......と言われている。
この説にしたがって考えると、色々な事がらに継びつく。
※三宅附近で近年丸味のある浜辺の小石と砂の層が出たこと。
※昭和のはじめ斎宮前の田圃の工事で砂の層を発見した。
※平井の塩干神社境内に明治初年まで談水と塩水の二つの神池があったことが記憶にあると言う古老の話。
※成願寺に大きな沼があったという言い居伝え。
これらを綜合すると、太古において間人・岩木・竹野・宮一帯の田圃は、長年月の間に竹野川の砂土の累積した平野であると結論づけられる。
明治初年は竹野川は今よりずっと水深く、流れも速く船のゆききは自由にでき、間人村の百姓は川尻から間人田圃まで船で下肥を運んでおり、また江戸時代の金比羅詣りは舟で矢田橋上の多久神社の所まで行けたといわれている。

『丹後国竹野郡誌』深田部神社(黒部)
(同社調文書) 
社名原由深田部の名義社記に曰當地の近辺往古海原なりしが漸々潮水引き其跡深き沼田となる、其時の状況自然土地の地名となり此近辺総て深田と云ふ此地に創立せしを以て深田部神社と称するなり

『京都府の地名』志布比神社(大山)
 この神社には次のような伝承がある。
 大昔この付近の村々はみな高い山中にあり、竹野川の流域は海の底であったという。その頃大山(志布比神社の裏山)に神様がいて、海水を飲み干し田圃をつくろうと考え、一口飲むと中郡の、二口目に現弥栄町の、三口目に現丹後町の田圃が開かれた。しかし海水があまりに塩辛かったので飲み干すことがでさず、水溜りが残ってしまった。里の人々は神に感謝し、飲み残された水溜りの傍らに宮を建てた。この社がのちに式内志布比神社となり、里人たちは「しおほっさん」と称し崇敬した。水溜りは小さくなり、今では境内の一部にその跡が残るだけになったが、明治の初年頃までは水が溜っていて塩辛かったという。
人類史以前にさかのぼれば
『京都五億年の旅』
黒部に貝の化石
今から二十年ほど前、弥栄町黒部の農協の前庭を広げるため崖を切り取っていますと、粘土層からたくさんの貝がちがでてきました。ここは海岸から七キロメートルも上流なのです。
こんなところから海にすむ貝がらが見つかったことは珍らしく不思議なことでした。近所の小・中学校の生徒は盛んに貝化石の採取をしました。丹後の小・中学校の理科担当の先生方で作っていた奥丹後地質鉱物研究会は野外調査をし、ここの貝化石のことをはじめておおやけにしました。
 崖は高さが八メートルで貝がらは一番下の一・五メートルぐらいの粘土層に含まれていました。この中からは、マガキ、サルボウ、アサリなど四十五種の貝やクロマツの毬菜などがみつかっています。この地層は溝谷(みぞたに)あたりまで続いています。かつて弥栄盆地には湾口の狭い久美浜湾のような海が入りこんでいたのです。
 カモノアシガキという貝もたくさん見つかっています。この貝は台湾やフィリピンなど暖かい海にすむものですので、この海は今よりもっと暖かかったことでしょう。そして海は地層の厚さからして、かなり長い期間続いていたようですが、やがて竹野川が運んでくる土砂で埋められてしまいました。
古竹野潟湖
氷河期と間氷河期の海進と海退だけでは説明できないのではなかろうか。50メートル以上も海面を押し上げるほども地球規模の温暖化があったとも考えられず、やはり当地に隆起があったと思われる。

そこで、もし40メートル沈下したならば、こうなるの海岸線である。日本海側海岸のテラスの隆起量はもっとある場所もあり、もし丹後半島が一様に隆起していたなら、その隆起以前はこうした状態ではにかったか→
(緑色は50メートル)

ここまでであったかはどうかとして、古くはずっと奥まで入り込んでいて、大田南古墳群の時代は、その直下までは潟湖でなかったかと考えられる、青龍三年鏡の頃はあのあたりに港があったのではなかろうか。
何かの巨大な地殻の力で丹後半島が裂けて生まれたと思われる巨大な谷で、この延長線は加悦谷になるのだが、それもどんどん埋まり横穴の時代になると当社一帯だけの潟湖に縮小していたのではなかろうか。
これを川と見るか海と見るか、それで河岸段丘としたり、海岸段丘と見たりするのだろうが、この入り江の周囲は段丘が残されている。
詳しくはボーリングして調べてもらいたい。


潟湖があったというだけではこれだけの発展はない、海運業と右から左への卸問屋業だけで、この地産の高価な交換商品がなければ、豊かな富は手に入らない。農産物や海産物はカサは大きいが金額がはらない。水晶玉や金属ではなかっただろうか。
私はこの時代は金属生産と見る。海の鬼も山の鬼も悪者ではなく、実はこの地の発展と富を築いてくれたものではなかっただろうか。
舞鶴のオニも大江山のオニも最後は当社へ逃れる、当社こそが丹後のオニの本拠地でなかっただろうか。
富は額に汗し手にタコして働く者からのみ得られるもので、資本や国や親王とやらが生み出したりはしない。かつて当社祭礼は霜月丑の日に行われ、鬼神塚(牧ノ谷)に詣でて鬼神たちに感謝した。オニが滅びたとき丹後もまた滅びたのであった。アメさんやテッポーやゼニやらカジノやらアホらしいものの崇拝はやめよう、まじめに働く者に対するまじめな手当をまじめにやろう、国を滅ぼしたくなくばそれしかない、現在でも忘れてはなるまい塚である。
鬼神塚
竹野神社には支社がないようである、しかし斎神社というのはあちこちに見られて、舞鶴にもあるし若狭にも結構見られる、綾部にもあるが、はたして当社の支社かは不明である。
桜井サンは舞鶴にもあるが、当社家の別れかも不明である。

こうしたことで古くは確かな史料がない。
「三代実録」元慶元年十二月廿九日乙未条に、「授丹後国正六位上竹野山伎神従五位下」とあり、これが当社のことという。
「延喜式」に、丹後国竹野郡  竹野(タカノノ)神社(大)

以後の主な史料は下段に引いたので参照して下さい。
江戸時代には宮津・出石両藩の歴代藩主の崇敬も受けたといわれるが、とくに漁師などから丹後の明神として崇信された。遠く隠岐国から神馬が当社に奉納され、神馬が倒れるごとに奉納は繰り返されたという。社家の桜井家は現在58代目という。



テンキテンキ
「道の駅てんきてんき」「てんきてんき村」とか河口には「てんきてんき橋」があるが、そのテンキテンキとは、この伝統民俗芸能のかけ声から採られたものである。
コエカケ、コエカケ、ハジメヨウ。テンキテンキ、ヒヨリヨイサ
てんきてんき
(坂根正喜写真集『心のふるさと丹後Ⅱ』より↑)
漁師の村らしい予祝のかけ声のようだが、黒部や船木の踊子と同じ流れに立つ中世的な囃子物で、風流踊の古態を示すものといわれる。太鼓1とササラ4で囃しながら小学生の子達が踊ってくれるものだが、大山や遠下にも同様なものは伝わるというが私はまだ見たことがない。中郡や竹野郡の神社の祭礼は、みな同じ日(今は10月の第2日曜日)で、同じ時間帯だから、見たくても都合がつかないのである。
当社の栞に、
竹野テンキテンキとは、竹野区に伝えられる郷土芸能で、10月10日の竹野神社の祭礼に演じられるもので、テンキテンキの名称は、子供たちが掛ける声、『コエカケ、コエカケハジメヨウ。テンキテンキ、ヒヨリヨイサ』に由来するものです。
 この芸能は、竹野集落の子供たちによって伝承されており、構成は太鼓持ち1人、太鼓打ち1人、ササラ4人の合計6人で演じられます。きわめて素朴なものですが、風流囃子物の古い形をのこす芸能として、資料的な価値の高いもので、京都府登録文化財に指定されています。
テンキテンキは竹野区のもので、少子化の中で近頃ではこの6名の小学生の確保が難しい。
竹野区は70戸ばかりありますが、小学生は3名だけです、中学生を入れたりしてやってきましたが、もうダメですわ、できなくなって3年ばかりになります。
とにかく結婚してもらわないことにはどうにもなりません。この村にもそうした年頃のもんは何人もおるんです、40ナンボとか、そんなのがけっこうおるんです。うごきません、どういうのか積極性がない、ナニからナニまでこちらで段取りしないことには自分からは動きません。それに以前は世話焼きのデシャバリばぁーさんとかいましたが、この頃はなにやかにやと難しい、すぐ離婚したりしますんで、世話焼く人もなくなりました。ここから丹後が始まったなどと言われる歴史ある村ですが、それがそうなんです。
地方は土壇場へ来た。それを象徴するような話である、別に結婚しようと積極的に動かない未婚者が悪いわけではない、そうさせてしまっている政治や社会こそが問題なのであるが、これは政府やそれにベッタリの自治体やエライさんなどにまかせていてどうなるものでもない、彼らにやらせていたのではますます悪くなるだけであろう。このオッちゃんもそう言っていた。
あきらめたら終わる、自分の村なのだからそこの村人自らでやるより確かな手がない、ひとつひとつ自信を取り戻していくより手がない。
そうしたことで、漁船で海の案内をされているとか、そこでカップルを作るのだそうである。ネットを見て来られるようで、なかなか若い人達に人気があるとのことであった。
ずっと昔だが、たぶんここからだったと思うが釣り船に乗せてもらいイカを釣った記憶があるが、このごろはイカやタコではなく、釣り上げようとするエモノが違うようである。いいエモノを釣れよ。





《交通》



竹野神社の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
一 近沢保  三町二段二百七十歩内
  二段百四十四歩    竹野社御神領
  一町四段百卅六歩     近沢
  八段百八十歩       伊佐次郎
  五段百八十歩       楠田肥前
  四段           脇田八郎

一 竹野社  二町三段二百四十歩    御神領

「室尾山観音寺神名帳」「竹野郡五十八前」
正二位 竹野明神

『丹哥府志』
【竹野神社】(延喜式)
本社二間四面、社の右に小社あり麻呂子皇子を祭る、本社の正面に石灯篭一対、石階十級を下りて拝殿あり、拝殿の左右に回廊あり(右に神輿を納め左に絵馬をかける)回廊より起りて社の左右前後に塀を廻らす、塀の左右に門あり、回廊の前に石灯篭一対、末社三座、末社の前に石階九級を下りて狛犬一対、石灯篭一対、右より末社一座、左に手水鉢並に石灯篭あり、其正面に華表及反橋あり、橋の右に下馬札あり、下馬札の傍に石灯篭一基、石灯篭の左に社司桜井氏の宅あり(末社の内に丸田の社といふあり、是桜井氏大祖なり昔麻呂子皇子に随従して夷賊を誅戮す、今桜井氏は其子孫なり)桜井氏の宅の前より道を挟みて松樹左右に連る凡五丁余、其間に華表二基あり。社記曰。推古天皇の御宇加佐郡三上の嶽に?古、軽足、土車といふ三人のもの多く凶徒を集め人民を害す、於是天皇麻呂子皇子に命じて是を征伐せしむ(麻呂子皇子は用明天皇第三の皇子、母は葛城直磐村の女なり、異母兄を厩戸皇子といふ所謂聖徳太子なり、母を穴穂部間人皇后といふ竹野村の西間人村に由緒あり)其弟塩子、松枝の二皇子(皇子の弟に来目皇子殖栗皇子田目皇子茨田皇子の四皇子あり、今塩干松枝といふは何れをさしていふや詳ならず)と同じく三上ケ嶽に向ふ、三上ケ嶽の凶徒遁れて竹野郡に走る、麻呂子皇子これを遂ふて遂に尽く殺す、蓋海賊なり俗に鬼と称す、国人これが為に窘めらる年久し、よって麻呂子皇子を斎宮(倭姫の斎き祭る天照太神の宮是なり)に合せ祭り北狄守護神と崇め奉る、今斎大明神といふ、祭二月初午九月十日。其祭の日神輿三体を舁ぎ出し、右先を争ふて並木の間を行く、其先に御旅所あり、還る時には各列を正し静に歌ふて云、斎宮祭り、トテ、ヤヨカエリソーロ、ケイニモソーロ、ヒルニモソーロ、其太鼓の拍子テンキテンキテンキヒヨリヒヨリサツサ
愚按ずるに、麻呂子皇子三上ケ嶽の夷賊征伐の事国史に載せず、然れども皇子は征新羅将軍なり、推古帝卅四年春三月より雨降らず、秋七月に至りて天下大に飢へ盗賊蜂起すといふ(日本史)是を以て考ふれば国俗の伝ふる所未だ據るべきにあらず。
【斎女】神啓蒙云。熊野郡市場村に斎宮の者あり、女子生るる時は飛箭来りて屋上に立つ其子四五歳の頃より斎の宮に奉る、これを斎女と称す、既にして高山深谷の中に独り禽獣と居る敢て畏るる事なし、其天癸を見るに及ぶ頃大蛇出でて眼を瞋らす、是時宮を致して故郷に還る。
【神馬】隠岐の国島前といふ所に渡辺助蔵といふ若者あり此守より神馬を奉る、神馬斃るる時は又重ねて神馬を奉る、古より今に相続して始終如此なり、始め神馬を奉る時奉丹後国竹野郡斎宮といふ札を馬に付けて先づ伯耆の国へ渡す、夫より宿々相送りて斎宮に至る。
【幟竿】丹波天田郡野花に小田孫八郎といふ者あり、祭礼に用ゆる幟竿の竿其者より年々奉る。
蔵宝
一、鎧 二領(出図)。一、横笛 二管。
【奥院】斎宮の後山を中か尾といふ、其上に小祠あり斎宮の奥院といふ、土人畏れて妄に登らず独り斎女のみのぼるといふ何の事なりや。

『丹哥府志』
【鬼神塚】(祭十一月中の丑)
昔麻呂子皇子の誅戮せられたる夷賊の墓なり俗に鬼神塚といふ、凡十五六も處々に散乱してあり、昔は四五尺斗りある石の擬法師に似たるものを其墓に建てたり、まづ五輪ともいふべきものなり、今半は地に埋れて壹ツ残る、其損じたるによりて近世新に石を建て鬼神塚と刻す。其祭の次第異風なる事なり、始め竹野村の下社家といふもの卅六人斎戒沐浴して祭の前夜より清浄の家を撰み竹野村に篭る、翌日相與に宮村に来り社司桜井氏と同じく牧の谷へ行き於是呪文をあげる、世の人其祭り與る人に見らるる時は三年の内に命終るとて一人も其祭を見るものなし、其夜の夜半に及ぶ頃社司一人従者一人本社へ参り米を洗ふて飯を焚く、其飯の熱する頃従者本社より退き其跡に於て社司如何する事を知らず、社司も亦如何する事をいはず、よって世間其次第を知る者なし、或は云、飯に砂を半交ぜて背手にて之を神前に供す、既に供して直ちに帰る、其帰る頃其飯を食ふ者ありといふ、其夜奇怪の事ありとて日の暮より家の戸を鎖して一人も戸外に出る者なし、昔凶賊の此辺に徘徊せし時の余風其祭り残りて斯様の次第なりや、如何の謂をしらず。

『田辺府志』
斎大明神
斎大明神の由来前段麻呂子親王鬼賊退治の處につぶさに記せり。齋大明神といふ事は同国熊野郡市場村の中に神につかふる家あり、女子を生る時神箭飛ゆきて彼家の棟に立たり、四五歳の時宮におくり奉る山中たれども獣もやぶる事なし、成長して交接の心生する時大蛇出て眼を瞋らかす、其時郷に帰る、是を齋女といふなり、此斎女ある宮ゆへに世人齋大明神といふなり。

『宮津府志』
今曰斎宮大明神。祭神二座伊勢両宮と同。社人・桜井内匠頭
...又斎宮ト號スルハ熊野郡市場村ニ斎官之人有女子を生メバ則チ飛箭屋上ニ立ツ也。其ノ子四五歳之時当宮ニ奉リ斎女ト為也。山中深林之中ニ獨リ禽獣ト同居シテ敢テ畏怖スルコト無シ。若シ長シテ天癸(月経)至リ或ハ交接之情生スルニ及テハ即チ大蛇出現シテキキトシテ(雷鳴のとどろくがごとく)眼ヲ瞋ラス是時ニ及テ官ヲ致シテ郷里ニ還ル 以上神社啓蒙)...田辺府志曰、麿子親王当国の凶賊を平治し、天照太神の宝殿を造営勧請し伊勢の斎女に相准し熊野郡の中より士姓を撰び少女を斎女に奉る、側に別宮あり是麿子親王の社也。
 按に麿子親王今俗に金丸親王と云、人皇三十二代用明天皇第三の皇子(一曰第二)母は葛城直磐村の女広子厩戸皇子別腹の弟也、親王は当麻氏の祖也和州当麻寺を再興せし当麻国見直人は此親王の孫也、親王の当国凶賊を征伐せし事田辺府志に載たり然共未だ国史を詳にせず。又親王の本祠は熊野郡市場村にありとぞ、今本社の左の方にある社是亦親王を祭るなり。又社人曰古代の神箭中古迄傳りしが百七八十年前当社回禄の災あり神箭宝器武具等悉く焼亡し今僅に鎧二領武器一二残れりとぞ。又当社の神馬は隠岐の国より献ずとなり、荷来る神馬死すれば隠岐の国より神馬を仕立て出雲の国へ渡し、夫れより散銭箱を附て放ち遣すに必滞る事なく当社に来るとなり。又祭禮に用ゆる旗竿丹波国天田郡野花村孫八郎と云者の方より送り遣す、六七寸周りの竹を根と共に掘たるもの也、古来は福知山川へ流し夫れより数十里海上を経て竹野浦へ漂ひ着くとなり、此野花村孫八郎家に故ありて麿子親王の武器を持傳ふ毎年六月丑の日に是を諸人に観せしむるとなり。

『丹後旧事記』
日本古事記に曰く若倭根子日子大毘毘尊(開化天皇)聚旦波大県主油碁理女竹野媛生御子此子由牟須美尊(一柱)旧事記に曰く竹野媛は垂仁天皇の御代迄も有仕遂年老形姿醜返於本土葛野地到の時輿より堕ちて身失ぬ玄旨法印説に曰く是を城州葛野の事に記せしは旧事記の誤り勅諚により随つて送来有当国葛野の地より返し静に竹野里の身失しなり此媛旧里に帰り大神宮を祭る、所謂竹野郡竹野里に竹野宮是也又此媛斎女となりけるに依て斎の宮とも云なり大県主油碁理は竹野里を国府となし館造し人也。

『大日本地名辞書』
【竹野(タカノノ)郷】和名抄、竹野郡竹野郷。○今竹野村八木゙村是なり、鳥取郷の北、竹野川の東畔なり。竹野神社は今竹野村大字宮に在り、斎宮と云ふ、竹野別の祖を祭る、開化紀に、皇子彦湯産隅命の生母を竹野媛と為し、其子を彦坐王とす、古事記には彦湯産隅命の異母弟、建豊波豆羅和気を以て「丹波之竹野別之祖也」と注す、国造本紀には、但遅麻国造は竹野君同祖彦坐王五世孫とありて、古事記の註と符合せず、此なる社は建波豆羅命にあらずして、彦湯産隅命なるべし、神社啓蒙宮津府志等に、竹野宮は麿子王の天照大神を祭れる所と為すは古義に合はず。
補【竹野宮】○宮津府志、神社啓蒙曰、所祭之神二座也、里民所謂斎宮是也、蓋有斎宮女子之故也、田辺府志曰、麻呂子親王当国之凶賊ほ平治して天照太神の宝殿を造営勧請し、伊勢の斎女に相准じ熊野郡の中より少女を斎女に奉る、側に別宮あり、是麻呂子親王の社也、又親王の本祠は熊野郡市場村にありとぞ、又当社の神馬は隠岐国より献ずとなり、有来る神馬死れば神の告あるにや、ほどなく隠岐の国より神馬を仕立て出雲の国へ渡し、夫より散銭箱を付て放ちつかはすに、必滞ことなく当社に来るとなり。○三代実録、元慶元年授位。

「丹後国式内神社取調書」
竹野神社
○今在竹野村称大齋大明神 諸社一覧同 ○【古事記】開化天皇娶葛城之垂見宿禰之女?比売生御子建豊波豆羅和気云々丹波之竹野別等之祖
【三実】元慶元年十二月廿九日乙未授丹後国正六位上竹野山伎神従五位下【和爾雅】竹野村所祭二座与伊勢両宮同【宮津志】斎宮神社在竹野郡竹野村称竹野神社【三才】同和爾雅又云当国熊野郡市場村人如産女則?四五歳爲斎宮以奉仕於神雖深夜獨坐無敢怖畏徐成長至見月水忽大蛇出遂之因不得居自此還已家与新女相交代也【覈】竹野村ニマス今齋宮ト称ス【明紳】宮村祭日九月十日【道】竹野宮村齋宮大明神ト云【豊】宮村字宮谷九月十日【式考】竹野宮村竹野神社ハ祭神建豊波豆羅別命ニテ齋宮ハ天照大神ヲ祭リタルナリ其ハ古事記ニ豊波豆羅和気命者着道守臣海部造御名部造稲羽忍海部丹波之竹野別依網之阿毘古等之祖トアリ其外俗民ニアル雑類ニ此命トアリテ疑ナキコト也斎宮ハ竹野媛ヲ主ト祭リシナラント 吉岡氏ノ考 云レタルハ非ニテ竹野媛ノ私ニ天照大神ヲ祭リ玉ヘルナラン【道】竹野宮村鎮座齋大明神ト云古事記開化天皇條ニ娶且波之大縣主由碁理之女竹野比売生御子比古由牟須美命マタ建豊波豆羅和気王者丹波竹野別祖也トアリ此地名始メテコゝニ出タリ扨テ社後ノ山ニ鬼穴トモ鬼トモ云アリ毎年十月丑日鬼祭アリ神官櫻井氏齋戒シテ神供ヲ櫃ニ盛リ家僕ト二人荷ヒ背口退キニ穴ニ入リ其マゝ背口ヲ見ズシテ出ルナリ其夜ハ鬼出ルヨトアリトテ婦人小児又穢レ有ルモノハ他村ヘ行一宿シテ帰ルナリ他人ヲ宿スルコト能ハズ其故ハ摩利子親王鬼神退治シ玉シトキ一鬼ヲ此穴ニ封ジコノ一年一度ノ祭リヲ許シ玉フ是レヲ鬼祭ト云トゾ池臣考フルニ摩利子親王トハ彦坐王ノコトナリ古事記ニ日子坐王者遣旦波国人之殺玖賀耳御笠トモヱタリ鬼ハ玖賀耳之御笠霊ナリ日本紀ニハ丹波道主命遣丹波国以詔之曰若有不受敢乃挙兵伐之トアリ世ニ云四道将軍ノ一人ナリ然レドモ此国ヘ降リ玉ヒシハ道主命ニハアラズ彦坐王ナルニ紛レナシ如何トナレバ丹波ニ住坐ス故ニ云フコトナリ郡ニテ生レ都ニ住シ玉テ丹波某トハ云ベキヨシナシ始メテ下リ玉ヒシハ道主命ニ疑ヒナシ扨テ摩利子親王ヲ用明天皇第三皇子母ハ葛城眞磐村ノ女広子厩戸皇子別腹ノ弟ナリ親王ハ当麻氏祖ナリ云々ナド云ハ取ニ足ラヌ作説ナリ又親王廟熊野郡市場村ニアルト云ヘルハ妙見ト云社カ又坂井村ニ御陵明神ト云アリ若シクハ是カ考フベシ。又神社啓蒙マタ和訓栞等ニ熊野郡市場村齋宮ノ人アリ、女子ヲ産メパ則チ飛箭来テ屋上ニ立ナリ其子四五歳ノ時当社ニ奉ル呼テ斎女トナス。山中深林ノ中ニ於テ獨禽獣ト同居ス敢テ恐怖ナシ若シ及長或ハ交接ノ情生レバ大蛇出現シテ爬々トシテ瞑目是時ニ致官郷里ニ帰ルトアリ巳其事トモ知人ナシ按ルニ此社ヲ齋大明神ト云ニヨリテノ作説ナルベシ。又何時ヨリト云コト不知隠岐国ヨリ駒一匹奉ルナリ此ハ今ニ不絶)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)

『丹後国竹野郡誌』
竹野神社 郷社  字宮小字宮谷鎮座
 (延喜式) 丹後国竹野郡  竹野(タカノノ)神社(大)
 (社 記)  祭神  天照皇太神
 (丹後舊事記)
  竹野神社  神主嶋左京  竹野村
          長官櫻井甲斐守  従五位下六代
   祭神  天照皇太神宮
      末社 齋大明神
 此所ハ開化天皇治メタマフ天下御代、丹波大縣主由碁理之府跡也、天照皇太神宮奉祝事ハ崇神天皇六年乙丑秋九月豊鋤入姫天照太神及ヒ草薙剣ヲ加佐郡奉移シ、大縣主由碁理奉神供領貢ぐ奉捧皇太神宮ニ六年ヲ経テ国ヲ移替ヘ給フ 此時豊鋤入姫有テ詫宣而此神供領以分宮與奉神也
 摂社  齋宮神社
  祭 神  日子坐王命 建豊波豆良和気命 竹野媛命
(神記) 齊女(イツキノオニ)者、大縣主由碁理ノ女、竹野比売始トス、此比売垂仁天皇宮仕年老テ皈本土ニ天照皇太神奉祭、此比売以奉齋大明神崇
(三代実録) 元慶元年十二月二十九日乙未授丹後国正六位上竹野神山岐神従五位下
 (考按) 竹野神は竹野神社にして山伎神は摂社なる齋宮神社を出伎と害し出の字を誤りて山伎と書きしならん、然らされば延喜式其他にも社名及地名なきを以て考ふればなり、然れども竹野神社は祭神天照皇太神、齋宮神社は齋女竹野媛を祀りたりとすれば、所謂主従の神に仝位階を授けらるゝこと如何、要するにいつきの宮祭神は猶豊鋤入姫などなるべきか国史に�%B

00038 (2).jpg関西ウォーカーとコラボレーション!

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丹後の海で、「青の洞窟体験」

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plan01.jpg カニお昼席のご予約承り中です(●^o^●)
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◎昼食開始時間 11時~11時30分の間
◎お部屋のご利用時間 11時~14時まで
※昼食の後の、温泉利用は、16時までごゆっくりお楽しみ頂けます。

ご予約は、お電話にて  0772-75-2639 まで

丹後の『青の洞窟コース』で丹後の夏を楽しもう!』

女将と漁師さんのコラボの新企画です。神秘的で美しく、宇宙を感じる不思議な世界へご案内します。
■期間:7月・8月(海が穏やかなとき) ■約1時間程度 ■出港場所:竹野漁港
■乗船料金:仕立て(定員3名)◆2名までは一回出港10,000円◆3名はお一人様4000円

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丹後の海を飛び跳ねる!丹後の海から多種多彩な岩石海岸を体感!『遊覧コース』
■期間:4月~10月(海が穏やかなとき) ■約1時間程度
■出港場所:中浜漁港・竹野漁港・間人漁港
■乗船料金:全コース共 ◆大人3,000円 ◆小人1,500円

中浜漁港のみ出港 『小魚釣り体験』

■小魚釣り体験【中浜漁港のみ】※遊覧なし
乗船料金 + 竿代1竿1,500円

ほんまもん体験・竹野漁港出港 『早朝の朝日』『定置網体験』

【4月~9月】
■朝日&定置網(早朝5時出港) ◆大人4,000円 ◆小学生以上2,000円
 ※獲れた魚を少しお持ち帰りできます。

■青の洞窟めぐり ◎1回出航料金 ◆2名様まで10000円 ◆3名様は1人4000円

 

4月~6月中旬[海が穏やかな時]早朝5時出港。
感動の朝日を海から見よう!!

丹後町・竹野漁港から出港「第五公栄丸」朝日&定置網で感動と桜鯛をゲット。
漁師さんの桜鯛漁に同行し、定置網漁を体験。
獲れた桜鯛は、朝食にて贅沢に"活き造り"でお召し上がり頂けます。

4月~9月中旬 [海が穏やかな時]
「遊漁船とび丸タクシー」出港!海から見る丹後。

中浜漁港、竹野漁港、間人漁港から出港します。
     
山陰海岸ジオパークに認定された、数々の岩石を海からご覧頂けます。
運?が良ければ"イルカ"に出会えるかも

7月~8月 中浜漁港より出港

「小魚釣り体験」乗船料金+一竿1,500円
たくさん釣れると、家族も笑顔に。丹後の夏の想い出に...

 

 _MG_0249.jpgのサムネイル画像のサムネイル画像のサムネイル画像のサムネイル画像松葉かにのメスのカニを「セイコカニ」といいます。

オスの松葉ガニに比べるととっても小さいですが、私たち地元人は「かに」といえばこのメスガニのことをいいます。

今回一押しの海鮮丼・漁師の賄い「セコ丼」を別注料理でご用意いたしました。

先日朝ご飯にご注文いただいたお客様、「楽しみにしていて下さいね~」とお声をかけました。

朝「どうでしたか?セコ丼は?」とお尋ねすると、お母さんも、息子さんも「初めての味に感激」と笑顔でお答えいただきました。 どんな感じのセコ丼かは秘密です。食べてみて下さいね。

想像をはるかに超えたセコ丼は私女将の自慢の一品です。

DSC09401.JPGセコガニを毎日でも食べたい私は、3年間お客様に食べていただき、反応を見て今年デビューいたしました。(*^_^*) セコ丼 1500円 朝ご飯に食べるのが良さそうです。

セコガニが大好きだけれど旅館のプランに出ていないというお客様の声にお応えして、とト屋では年内2カ月しか味わえないセコガニプランをご用意致しております。

「昔はおやつに食べたね。」という丹後を離れた方が懐かしく私に話して下さいます。

「ちびりちびり、日本酒を飲みながら食べるのは最高だ」と言う声に喜びを感じながら、私はセコガ二プランのお客様に最高の状態で召し上がっていただいています。

たった2カ月しか活のセコガニは食すことができません。

内子、外子の濃厚な味と優しい身の旨みを是非味わって下さい。ホント激ウマですよ。

旨いわけ ①間人港、間人カニのメスだから ②活けのセコかにだから ③お米は野木源のコシヒカリだから ④漁師さんが船上で食べているのを参考にしているから ⑤女将が一番セコガニを愛しているから  で~す。









京都新聞.png京都新聞 「週刊トマト&テレビ京都」に紹介されました(*^_^*)

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11月6日「間人ガニ」解禁です。

皆様のお越しをお待ち致しておりま~す!(^^)!

キス新聞.jpg今年も9月1日、「底引き網漁」が解禁になりました。
昨年の「日本経済新聞」でご紹介いただきました、
沖キスが今年も、大人気です!!
是非、この機会に丹後の庶民の味をご堪能下さいませ。

ご予約は、こちから ↓  ↓  ↓

http://totoya.rwiths.net/r-withs/tfi0010a.do

sokobiki01.jpg間人港が活気ずいてきました。美味しい魚が食べられると地元人も大喜びです。
一番は沖ギスの解禁と言われるくらい待ちに待った魚です。皆さんご賞味下さい。

 

 

 

 

 

 

 

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焼きギスをお腹いっぱい食べるのが間人(たいざ)流です。

 

 

 

 

 

 

 

 

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沖ギス食べ放題プランがこざいます。
地酒と共に食す焼きギスはもうたまらないです。
七輪で焼くキス熱々のキスはもちろん生姜醤油でいただきます。

 

 

 

 

 

 

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毎日賄いご飯で地魚を頂いています。
有難いことです。
お客様のおかげです。

女将 池田香代子

解禁.jpgあと少し...あと少し...... お待たせ致しました。

11月6日 今年も始まります。

間人ガニ漁 解禁!!

ご予約受付中で~す。

今年も、皆様のお越しをお待ち致しおります。

日の出と丹後の魚をとって女将と一緒に楽しもう。
☆☆~ほんまもん定置網漁体験・魚をゲットしよう~☆☆
※10名様までなら団体でのご参加もOK!!
※お一人様だけのご参加でも大歓迎(^◇^)ご主人だけ頑張って!!

※料金 お一人様 ◎大人4000円 ◎小学生2000円


☆大勢の人に丹後の海を感じてほしい...と女将の熱い想いから実現。
☆桜鯛が豊富にとれる春に漁師さんがジオパークスポット犬ヶ岬の朝日を見に連れて行ってくれます。そして定置網漁を体感して、獲れた魚を朝食で頂ける。

☆★☆獲れた魚は遅めの朝食でいただける。嬉しい悲鳴!
海の男・海の女に大変身(^◇^)

ご予約は、 こちらから ↓ ↓ ↓

http://totoya.rwiths.net/r-withs/tfi0010a.do


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